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歴 史

サン族(ブッシュマン)の時代

紀元前1000年ごろから16世紀にかけて、南部アフリカには狩猟民族であるサン族、ブッシュマンとも呼ばれました、が広く居住していました。しかし、北方よりバントゥー系部族のソト族が南下して、サン族を駆逐し、徐々に現在の南アフリカ共和国のフリーステート州及びレソト周辺に居住するようになりました。その領域は各部族長によって分割統治されていました。

余談

バントゥー系部族はバントゥー語族という言語カテゴリに属する黒人部族の総称です。サハラ砂漠以南に広く分布し、3億人以上、400以上の部族からなります。言語にはある程度の共通性がありますが、意思の疎通ができることは稀です。


モショエショエ1世による統治(1822-1868)

モショエショエ1世(中央)と重臣達1822年にモショエショエ1世がソト族の統合の首長、初代国王となり、全土を統治するようになりました。しかし、王国はその後、イギリスとオランダの植民地紛争に翻弄されます。

ナポレオン戦争の結果、オランダは1812年、南アフリカ南西部のケープ植民地をイギリスに割譲しました。イギリスによる支配を嫌ったオランダ系移民(ボーア人)集団は1835年から内陸部へ大規模な移動(グレート・トレック)を開始したのです。

レソトに進出したボーア人との数度の戦争(ボーア・バソト戦争)でモショエショエ1世は王国領の多くを失いました。それ以上の国土の喪失を防ぐため、1867年にイギリスと保護領になる協定を結びました。これによりボーア人によるレソト侵略は終結しました。しかし、最終的に国土の約80%、現在のフリーステート州の全域、を失いました。

余談1

ボーア人はレソトより奪った土地に自分たちの国であるオレンジ自由国を建国しました。また、これとは別にトランスバール共和国、ナタール共和国を建国しました。これらは現在の南アフリカ共和国の一部になりました。

余談2

ソト語ではソト族全体を指す場合は「バソト」、個々のソト人を指す場合は「モソト」と言います。そのため、イギリス保護領・植民地時代は「バソトランド」と呼ばれていました。

イギリスによる統治(1868-1966)

当時の銃器(ボーア戦争博物館の展示物)
モショエショエ1世は、1870年に死亡し、当時の首都であったタバ・ボシウ、現在の首都であるマセルの約30キロ東、に埋葬されました。以降、イギリスによる統治が本格的に始まりました。

イギリスは当初、レソトを強制的に併合した他の地域と同様に扱おうとしました。これは部族長たちにとって、大きな不満でした。イギリスはさらに統治を強化するために、部族長の権限を縮小するとともに、部族長とその軍に対して1880年までに武装解除、全ての銃器の提出を命じました。ほとんどの部族長はそれを拒否したため、イギリスと戦争状態になりました。部族長軍は山岳の地形を利用してゲリラ戦を展開して抵抗しました。火力で大きく勝っていたイギリス軍ですが、この抵抗で大きな損害を受け、その戦費はイギリス(ケープ植民地)にとって大きな負担となりました。翌1881年に平和条約が締結されました。こうしてこの戦争、Gun War(バソト戦争とも呼ばれます)はレソト、部族長連合軍の勝利で終わったのです。

1884年にレソトはイギリスとの間で新たな協定を結び、再度保護領となりました。レソトはイギリス統治官の支配下に置かれましたが、各地区の自治はそれぞれの部族長に任されることになりました。また、武装する権利も保証されました。

余談

Gun Warでレソトに武器を供給したのはオレンジ自由国でした。レソトにとってオレンジ自由国は国土の大半を奪った、憎んでも憎みきれない敵です。しかし、戦争には武器が必要です。そして、Gun Warはボーア人がイギリスと戦った第一次ボーア戦争の時期と一致します。オレンジ自由国としてもイギリス軍を少しでもレソトに引きつけておきたかったのでしょう。敵の敵は味方ということですね。

イギリスからの独立(1966-現在)

レソト(バソトランド)は1966年にイギリスから独立し、レソト王国となり、モショエショエ2世が、独立後の初代国王(モショエショエ1世からだと6代目)として即位しました。首相にはバソトランド国民党(BNP)の党首、レアブア・ジョナサンが就任しましたが、1970年に実施された独立後初の総選挙で、バソトランド国民党はバソトランド会議党(BCP)に惨敗しました。しかし、レアブア・ジョナサンは下野を拒み、野党指導者を投獄するなど、一党独裁体制を築きました。

しかし、1986年に軍がクーデターを起こし、レアブラ・ジョナサンを追放しました。国軍司令官のジャスティン・レバンヤが軍事評議会議長に就任し、政党活動が禁止されました。国王モショエショエ2世は軍政に反対したため、国外に追放され、息子のレツィエ3世が即位しました。

1991年、再度クーデターが発生し、ジャスティン・レバンヤ議長は追放され、政党政治が復活しました。しかし、国王レツィエ3世は絶対王政を目指して、全閣僚を解任し、議会を解散して憲法を停止しました。これに反発した国民はゼネストや大規模な抗議デモを起こしたため、レツィエ3世は退位せざるを得なくなりました。1995年には父親のモショエショエ2世が復位しました。しかし、翌年交通事故で亡くなったため、政治に一切関与しないことを条件にレツィエ3世が再度即位しました。

マセルにある王宮

1998年に下院総選挙が実施され、与党レソト民主会議(LCD)が圧勝しましたが、選挙結果に不満を持つ群衆が暴徒化し、治安が極度に悪化したため、政府の要請で南アフリカ軍とボツワナ軍が1年間駐留し、治安維持に努めました。その後、治安は安定し、以降二度の下院議員選挙も大きな混乱なく実施されました。

余談

このように独立後のレソトは度重なる政変やクーデターで混乱し、治安も悪化していましたが、現在は政情も安定し、アフリカで数少ない民主主義が有効に機能している国の一つとされています。治安も周辺国に比べると良好です。やはり民主主義が定着するのには50年やそこらは必要という事でしょうか。














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